歴史的資料
2016年01月21日
バガーマンさんの事
バガーマンさん
馬塲さんのことを 少し載せて行きます
馬塲さんの先祖は
八王子千人同心の仲間として160年前に七飯町に来られたそうです
追加
お祖父さんは弁護士
お祖父さん情報がこちらにありました
馬塲民則さん情報はこちら
こちらにも
伯父さんは、馬塲コレクション提供者
馬塲修さん情報はこちら
馬場みつさんの情報はこちら
こちらにも
130年前の写真
当時のことは 七飯町のHPにあります
七飯に眠ってる大叔父さんのこと
戸籍上は政昭ですが、政照とも言います。通称か、はたまた源氏名か(?)
平山金十郎や花輪五郎のご縁の方がおられたら是非お会いしたいものです。
政昭の娘がサヨです。
その娘がトシ、ヨシ。
サヨはこの娘を連れて勉三と結婚。
トシは一緒に帯広に行きましたが、ヨシは函館の靖和女学校で学ぶ。
こんなことが分かっています。
サヨさんは依田 勉三の妻
ここに載ってます お墓の事
馬場家のもう一つの墓
立待岬に馬場家の墓がある。墓碑銘の筆頭には「ディミ イトリイ馬場八百蔵 や お ぞ う 」、「エリザヴェタ馬場ナヲ」夫妻の名を 読み取ることができる。 八百蔵は、八王子千人同心の一人で、甲斐武田家の遺 臣であった(右上の写真の墓石に「武田菱」の紋が見え る)。彼らが集団で蝦夷開拓のために七飯 な な え 村に渡ってきた のが1856年(安政3)頃で、夫妻には政昭 ま さ あ き (長男)と民則 たみのり (次男)という二人の息子がいた。民則は、函館代言人組 合会長や函館区会議員を務めたアントニイ馬場民則。彼 も立待岬のこの墓の碑銘に名を連ねている。彼が永眠し た時(1908年)には、シメオン三井神父が正教新報に追悼 文を寄せている(『函館ハリストス正教会史』 94頁参照)。 しかしこの墓碑銘の中に馬場政昭の名は無く、つい先 日まで私たちは八百蔵に息子が二人いたことさえ知らな かった。 歴 史 の ひ と コ マ ▲ 立待岬の馬場家の墓 (右より長谷部一弘氏、墓石を挟 んで馬場民準氏、ニコライ神父) ▲ 上藤城の馬場家の墓 函館正教会に馬場民準 たみのり 氏(埼玉県在住)が訪ねて来られたのは昨年の秋のことであった。 民準 たみのり 氏にとって民則 たみのり は祖父にあたる。 民準氏は馬場家の祖先について詳しく調べており、私たちは多くの新事実を知ることとなっ た。 民準氏は、馬場政昭の墓が七飯の上藤城にあることを突き止めたのだが、その時(季節は 冬だった)、墓にみかんが一つと萎れた花が供えてあったというのだ。民準氏は「馬場政昭の 縁故の方がご存命であれば、是非お会いしたい」とのことで、情報を求めて函館正教会を訪 ねて来られたのであった。 民準氏は、昨年11月にも教会に立ち寄られた。帯広市開拓130周年記念行事で行われた 依田勉三(1853~1925)を記念する式典に参列し、本州に帰る帰途であった。依田勉三は、 筆舌に尽くしがたい苦労をして十勝地方の産業の基礎を築き、開墾に関する業績に対し緑 綬褒章を受けた人で、「十勝開拓の父」と呼ばれる。実は、馬場政昭の娘サヨが、依田勉三の 後妻に入っており、馬場家と依田家は親戚なのであった。 依田勉三の生涯を日記風に著した『風吹け、波立て』(松本晴雄著)の中には、サヨの祖父 八百蔵が永眠した時(明治31年2月9日)のことについて、「正午に神父の祈祷があり、一時に 出棺、尻沢辺へ埋葬し、三時に戻って酒飯が出され、五時に帰宅した 」、「朝五時 ※次頁へ続く - 8 - 歴 史 の ひ と コ マ ※前頁から続く に起き、六時にサヨと馬場へ出向くが、同家 は聖堂へ行って留守であった。そして聖堂へ 行き、神父の説教を聞いて九時に帰り、…」な どと記されている。 明治31年の函館正教会管轄司祭はペトル 山縣神父である。ちなみに八百蔵・ナオ夫妻 に洗礼を授けたのは、年代から推測すると、 聖ニコライであったと思われる。初めて聖ニコ ライが馬場家を訪ねてきた時、ナヲは大変驚 いて腰を抜かしたというエピソードが馬場家に 伝わっている。 馬場政昭について調べてみると、政昭は箱 館戦争のときに旧幕府軍側で戦っており、旧 幕府軍降伏後に、箱館府知事清水谷 し み ず だ に 公考 きんなる 暗殺(未遂)を企てた一味であったとのこと。信憑 性は定かではないが、ある資料によると政昭はこれらの事件の後、「キリスト教の人となった」と という。 『函館ハリストス正教会史』編纂の時にお世話になった長谷部一弘氏にも連絡し、馬場 氏、長谷部氏、ニコライ神父と私は、今年6月、七飯の上藤城に向った。そして今回も、まだ供 えられて間もない生花と盛り塩があるのを私たちは目にしたのである。政昭は墓碑銘によると 明治33年11月25日に52歳で永眠している。 政昭の墓に正教会らしきものは何も記されていなかった。墓表面には「馬場家奥津城 お く つ き 」と記 されている。神道で埋葬されたのであろうか。この一帯は城山 しろやま 地蔵堂と呼ばれる一角で、明治 13年に墓地として認可されている。 私たちはその後、立待岬の馬場家の墓に寄った。前述 の尻沢辺の墓がこの場所だったかどうかは確定できないが、この辺り一帯は昔尻沢辺と呼ば れていた。当時馬場家の住まいがあった青柳町から一番近い墓地である。現在の墓石は、眼 科医だったフォティナ馬場みつ姉が平成11年に再成したもので、フォティナ姉の墓碑銘が最 後である。フォティナ姉の姉妹たちは、子供時代に近所(青柳町)に住んでいた石川啄木の 妻節子が馬場家に醤油や米を借りに来たのを覚えているという。 ちなみに北方民俗研究家モイセイ馬場脩兄もこの墓に眠っている、 馬場家の墓から10~15メートルほど登ると、ロシア海軍病院医師だったゼレンスキイから写 真技術を学んだと言われている写真家田本研造氏の墓がある。
馬場民準氏が、七飯上藤城の城山地蔵堂にある馬場家の墓に生花を 供えて下さっている方を探しています。差支えなければ、お心当たりがある方は教会にご連絡ください。
馬塲さんのことを 少し載せて行きます
馬塲さんの先祖は
八王子千人同心の仲間として160年前に七飯町に来られたそうです
追加
お祖父さんは弁護士
お祖父さん情報がこちらにありました
馬塲民則さん情報はこちら
こちらにも
伯父さんは、馬塲コレクション提供者
馬塲修さん情報はこちら
馬場みつさんの情報はこちら
こちらにも
130年前の写真
当時のことは 七飯町のHPにあります
七飯に眠ってる大叔父さんのこと
戸籍上は政昭ですが、政照とも言います。通称か、はたまた源氏名か(?)
平山金十郎や花輪五郎のご縁の方がおられたら是非お会いしたいものです。
政昭の娘がサヨです。
その娘がトシ、ヨシ。
サヨはこの娘を連れて勉三と結婚。
トシは一緒に帯広に行きましたが、ヨシは函館の靖和女学校で学ぶ。
こんなことが分かっています。
サヨさんは依田 勉三の妻
ここに載ってます お墓の事
馬場家のもう一つの墓
立待岬に馬場家の墓がある。墓碑銘の筆頭には「ディミ イトリイ馬場八百蔵 や お ぞ う 」、「エリザヴェタ馬場ナヲ」夫妻の名を 読み取ることができる。 八百蔵は、八王子千人同心の一人で、甲斐武田家の遺 臣であった(右上の写真の墓石に「武田菱」の紋が見え る)。彼らが集団で蝦夷開拓のために七飯 な な え 村に渡ってきた のが1856年(安政3)頃で、夫妻には政昭 ま さ あ き (長男)と民則 たみのり (次男)という二人の息子がいた。民則は、函館代言人組 合会長や函館区会議員を務めたアントニイ馬場民則。彼 も立待岬のこの墓の碑銘に名を連ねている。彼が永眠し た時(1908年)には、シメオン三井神父が正教新報に追悼 文を寄せている(『函館ハリストス正教会史』 94頁参照)。 しかしこの墓碑銘の中に馬場政昭の名は無く、つい先 日まで私たちは八百蔵に息子が二人いたことさえ知らな かった。 歴 史 の ひ と コ マ ▲ 立待岬の馬場家の墓 (右より長谷部一弘氏、墓石を挟 んで馬場民準氏、ニコライ神父) ▲ 上藤城の馬場家の墓 函館正教会に馬場民準 たみのり 氏(埼玉県在住)が訪ねて来られたのは昨年の秋のことであった。 民準 たみのり 氏にとって民則 たみのり は祖父にあたる。 民準氏は馬場家の祖先について詳しく調べており、私たちは多くの新事実を知ることとなっ た。 民準氏は、馬場政昭の墓が七飯の上藤城にあることを突き止めたのだが、その時(季節は 冬だった)、墓にみかんが一つと萎れた花が供えてあったというのだ。民準氏は「馬場政昭の 縁故の方がご存命であれば、是非お会いしたい」とのことで、情報を求めて函館正教会を訪 ねて来られたのであった。 民準氏は、昨年11月にも教会に立ち寄られた。帯広市開拓130周年記念行事で行われた 依田勉三(1853~1925)を記念する式典に参列し、本州に帰る帰途であった。依田勉三は、 筆舌に尽くしがたい苦労をして十勝地方の産業の基礎を築き、開墾に関する業績に対し緑 綬褒章を受けた人で、「十勝開拓の父」と呼ばれる。実は、馬場政昭の娘サヨが、依田勉三の 後妻に入っており、馬場家と依田家は親戚なのであった。 依田勉三の生涯を日記風に著した『風吹け、波立て』(松本晴雄著)の中には、サヨの祖父 八百蔵が永眠した時(明治31年2月9日)のことについて、「正午に神父の祈祷があり、一時に 出棺、尻沢辺へ埋葬し、三時に戻って酒飯が出され、五時に帰宅した 」、「朝五時 ※次頁へ続く - 8 - 歴 史 の ひ と コ マ ※前頁から続く に起き、六時にサヨと馬場へ出向くが、同家 は聖堂へ行って留守であった。そして聖堂へ 行き、神父の説教を聞いて九時に帰り、…」な どと記されている。 明治31年の函館正教会管轄司祭はペトル 山縣神父である。ちなみに八百蔵・ナオ夫妻 に洗礼を授けたのは、年代から推測すると、 聖ニコライであったと思われる。初めて聖ニコ ライが馬場家を訪ねてきた時、ナヲは大変驚 いて腰を抜かしたというエピソードが馬場家に 伝わっている。 馬場政昭について調べてみると、政昭は箱 館戦争のときに旧幕府軍側で戦っており、旧 幕府軍降伏後に、箱館府知事清水谷 し み ず だ に 公考 きんなる 暗殺(未遂)を企てた一味であったとのこと。信憑 性は定かではないが、ある資料によると政昭はこれらの事件の後、「キリスト教の人となった」と という。 『函館ハリストス正教会史』編纂の時にお世話になった長谷部一弘氏にも連絡し、馬場 氏、長谷部氏、ニコライ神父と私は、今年6月、七飯の上藤城に向った。そして今回も、まだ供 えられて間もない生花と盛り塩があるのを私たちは目にしたのである。政昭は墓碑銘によると 明治33年11月25日に52歳で永眠している。 政昭の墓に正教会らしきものは何も記されていなかった。墓表面には「馬場家奥津城 お く つ き 」と記 されている。神道で埋葬されたのであろうか。この一帯は城山 しろやま 地蔵堂と呼ばれる一角で、明治 13年に墓地として認可されている。 私たちはその後、立待岬の馬場家の墓に寄った。前述 の尻沢辺の墓がこの場所だったかどうかは確定できないが、この辺り一帯は昔尻沢辺と呼ば れていた。当時馬場家の住まいがあった青柳町から一番近い墓地である。現在の墓石は、眼 科医だったフォティナ馬場みつ姉が平成11年に再成したもので、フォティナ姉の墓碑銘が最 後である。フォティナ姉の姉妹たちは、子供時代に近所(青柳町)に住んでいた石川啄木の 妻節子が馬場家に醤油や米を借りに来たのを覚えているという。 ちなみに北方民俗研究家モイセイ馬場脩兄もこの墓に眠っている、 馬場家の墓から10~15メートルほど登ると、ロシア海軍病院医師だったゼレンスキイから写 真技術を学んだと言われている写真家田本研造氏の墓がある。
馬場民準氏が、七飯上藤城の城山地蔵堂にある馬場家の墓に生花を 供えて下さっている方を探しています。差支えなければ、お心当たりがある方は教会にご連絡ください。
codaruma at 06:42|Permalink│Comments(5)│
2015年12月26日
130年前の函館 明治18年
久々に国立国会図書館
商工函館の魁 : 北海道独案内から写しました
明治18年
函館山は七面山という名前だったようです、と書きましたが
函館人さんから情報をいただきました
函館山全体が七面山とは呼ばれていたのではありません。
江戸時代、移転前の実行寺が現在の弥生小学校地にありました。本山の身延山久遠寺の奥に守護の七面明神を祀る七面山があるのを真似て、すぐ上の山を「七面 山」と呼びます。実行寺支配の百間四方の境内に、見事な堂舎に七面宮が安置、海上安全の信仰を集めます。明治12年の大火により焼失、跡地が現在の海軍墓 地です。
七面堂にあった石碑は、現在実行寺にあります。
当時から海産物、特に烏賊が
昆布はアイヌの人達が
これから下は、商店とか、公共施設とか、色々な商店が、これらのお店の末裔が、、どこかに
清酒も函館では作ってた、どんな味なんだろうな
商工函館の魁 : 北海道独案内から写しました
明治18年
函館山は七面山という名前だったようです、と書きましたが
函館人さんから情報をいただきました
函館山全体が七面山とは呼ばれていたのではありません。
江戸時代、移転前の実行寺が現在の弥生小学校地にありました。本山の身延山久遠寺の奥に守護の七面明神を祀る七面山があるのを真似て、すぐ上の山を「七面 山」と呼びます。実行寺支配の百間四方の境内に、見事な堂舎に七面宮が安置、海上安全の信仰を集めます。明治12年の大火により焼失、跡地が現在の海軍墓 地です。
七面堂にあった石碑は、現在実行寺にあります。
当時から海産物、特に烏賊が
昆布はアイヌの人達が
これから下は、商店とか、公共施設とか、色々な商店が、これらのお店の末裔が、、どこかに
清酒も函館では作ってた、どんな味なんだろうな
2015年05月13日
NHK みちしる 函館
NHK みちしる には古い動画がけっこうあります
函館と北斗市、七飯町
第1回函館港まつり 1935
大門の消え行く屋台 1961
いか売り いか徳利 1965
気象用レーダー基地完成(函館山) 1962
青函連絡船
大函丸の進水式
八甲田丸就航 1964
津軽丸の一般公開 1964
新型青函連絡船「大雪丸」初の公式試運転 1965
C62 雄大な自然の中を疾走 1971
300型、サヨナラ運転
ハリストス教会に24年ぶりに鐘 1968
函館ドック
25万トンタンカー進水 1972
北日本一のクレーン 1973
元町末広町の町並み 1998
夜景とスルメイカのまち
雪に浮かぶ地上の星座
港町・函館の岸壁に建ち並ぶ倉庫群
夏の定番朝ごはん
五稜郭タワー建設進む 1964
豊かな森と水辺の命
五稜郭公園の石垣修理 1968
市場で出会った絶品「ゴッコ汁」
海藻が茂る冬の海
北海道上磯町 2001
大正時代の北海道の産業
大正時代の北海道の自然
大沼公園駅 2009
函館と北斗市、七飯町
第1回函館港まつり 1935
大門の消え行く屋台 1961
いか売り いか徳利 1965
大正時代の北海道・函館水産加工品の仕分け場
1917年~18年(大正6~7年)
気象用レーダー基地完成(函館山) 1962
混雑する青函連絡船 1961
青函連絡船
津軽海峡にフェリーボート 1964
大函丸の進水式
八甲田丸就航 1964
津軽丸の一般公開 1964
津軽丸 貨車を積んで初航海 1964
新型青函連絡船「大雪丸」初の公式試運転 1965
C62 雄大な自然の中を疾走 1971
函館市電 1971
300型、サヨナラ運転
ハリストス教会に24年ぶりに鐘 1968
進水式 1969
函館ドック
25万トンタンカー進水 1972
函館ドック
北日本一のクレーン 1973
函館山から 1961
元町末広町の町並み 1998
北海道函館市 2012
夜景とスルメイカのまち
函館 冬
雪に浮かぶ地上の星座
金森赤レンガ倉庫 1998
港町・函館の岸壁に建ち並ぶ倉庫群
函館のイカ2012
夏の定番朝ごはん
五稜郭タワー建設進む 1964
函館 松倉川 冬 2009
豊かな森と水辺の命
五稜郭公園の石垣修理 1968
函館自由市場 2014
市場で出会った絶品「ゴッコ汁」
亀田半島の海 2008
海藻が茂る冬の海
海水浴でにぎわう七重浜 1968
北海道上磯町 2001
伝統漁法でホッキ貝をとるまち
北海道北斗市 2007
国内初の男子修道院があるまち
大正時代の北海道のセメント工場 1917年~18年
大正時代の北海道の産業
北海道七飯町 1996
日本の近代農業が生まれたまち
大沼トンネル開通 1964
国道5号線が短縮
大正時代の北海道・大沼と駒ヶ岳 1917年~18年
大正時代の北海道の自然大沼公園駅 2009
自然豊かな国定公園に建つ瀟洒な駅舎
北海道鉄道開通90周年 大沼号 1970
D52機関車が牽引
大沼湖水まつり 1968
大沼公園
天然氷の切り出し 1969
大沼の冬の風物詩
函館市中央図書館デジタル資料館
久々に検索してみてます 色々な資料が増えてます
函館市中央図書館デジタル資料館
穴間の 吊り橋ができる前には
天保年間箱館真景 リンク付けました
リンク付けました
函館豊川町武蔵野三階造全盛之図
函館市中央図書館デジタル資料館
穴間の 吊り橋ができる前には
天保年間箱館真景 リンク付けました
リンク付けました
函館豊川町武蔵野三階造全盛之図