バガーマンさんの事
2016年01月21日
バガーマンさんの事
バガーマンさん
馬塲さんのことを 少し載せて行きます
馬塲さんの先祖は
八王子千人同心の仲間として160年前に七飯町に来られたそうです
追加
お祖父さんは弁護士
お祖父さん情報がこちらにありました
馬塲民則さん情報はこちら
こちらにも
伯父さんは、馬塲コレクション提供者
馬塲修さん情報はこちら
馬場みつさんの情報はこちら
こちらにも
130年前の写真
当時のことは 七飯町のHPにあります
七飯に眠ってる大叔父さんのこと
戸籍上は政昭ですが、政照とも言います。通称か、はたまた源氏名か(?)
平山金十郎や花輪五郎のご縁の方がおられたら是非お会いしたいものです。
政昭の娘がサヨです。
その娘がトシ、ヨシ。
サヨはこの娘を連れて勉三と結婚。
トシは一緒に帯広に行きましたが、ヨシは函館の靖和女学校で学ぶ。
こんなことが分かっています。
サヨさんは依田 勉三の妻
ここに載ってます お墓の事
馬場家のもう一つの墓
立待岬に馬場家の墓がある。墓碑銘の筆頭には「ディミ イトリイ馬場八百蔵 や お ぞ う 」、「エリザヴェタ馬場ナヲ」夫妻の名を 読み取ることができる。 八百蔵は、八王子千人同心の一人で、甲斐武田家の遺 臣であった(右上の写真の墓石に「武田菱」の紋が見え る)。彼らが集団で蝦夷開拓のために七飯 な な え 村に渡ってきた のが1856年(安政3)頃で、夫妻には政昭 ま さ あ き (長男)と民則 たみのり (次男)という二人の息子がいた。民則は、函館代言人組 合会長や函館区会議員を務めたアントニイ馬場民則。彼 も立待岬のこの墓の碑銘に名を連ねている。彼が永眠し た時(1908年)には、シメオン三井神父が正教新報に追悼 文を寄せている(『函館ハリストス正教会史』 94頁参照)。 しかしこの墓碑銘の中に馬場政昭の名は無く、つい先 日まで私たちは八百蔵に息子が二人いたことさえ知らな かった。 歴 史 の ひ と コ マ ▲ 立待岬の馬場家の墓 (右より長谷部一弘氏、墓石を挟 んで馬場民準氏、ニコライ神父) ▲ 上藤城の馬場家の墓 函館正教会に馬場民準 たみのり 氏(埼玉県在住)が訪ねて来られたのは昨年の秋のことであった。 民準 たみのり 氏にとって民則 たみのり は祖父にあたる。 民準氏は馬場家の祖先について詳しく調べており、私たちは多くの新事実を知ることとなっ た。 民準氏は、馬場政昭の墓が七飯の上藤城にあることを突き止めたのだが、その時(季節は 冬だった)、墓にみかんが一つと萎れた花が供えてあったというのだ。民準氏は「馬場政昭の 縁故の方がご存命であれば、是非お会いしたい」とのことで、情報を求めて函館正教会を訪 ねて来られたのであった。 民準氏は、昨年11月にも教会に立ち寄られた。帯広市開拓130周年記念行事で行われた 依田勉三(1853~1925)を記念する式典に参列し、本州に帰る帰途であった。依田勉三は、 筆舌に尽くしがたい苦労をして十勝地方の産業の基礎を築き、開墾に関する業績に対し緑 綬褒章を受けた人で、「十勝開拓の父」と呼ばれる。実は、馬場政昭の娘サヨが、依田勉三の 後妻に入っており、馬場家と依田家は親戚なのであった。 依田勉三の生涯を日記風に著した『風吹け、波立て』(松本晴雄著)の中には、サヨの祖父 八百蔵が永眠した時(明治31年2月9日)のことについて、「正午に神父の祈祷があり、一時に 出棺、尻沢辺へ埋葬し、三時に戻って酒飯が出され、五時に帰宅した 」、「朝五時 ※次頁へ続く - 8 - 歴 史 の ひ と コ マ ※前頁から続く に起き、六時にサヨと馬場へ出向くが、同家 は聖堂へ行って留守であった。そして聖堂へ 行き、神父の説教を聞いて九時に帰り、…」な どと記されている。 明治31年の函館正教会管轄司祭はペトル 山縣神父である。ちなみに八百蔵・ナオ夫妻 に洗礼を授けたのは、年代から推測すると、 聖ニコライであったと思われる。初めて聖ニコ ライが馬場家を訪ねてきた時、ナヲは大変驚 いて腰を抜かしたというエピソードが馬場家に 伝わっている。 馬場政昭について調べてみると、政昭は箱 館戦争のときに旧幕府軍側で戦っており、旧 幕府軍降伏後に、箱館府知事清水谷 し み ず だ に 公考 きんなる 暗殺(未遂)を企てた一味であったとのこと。信憑 性は定かではないが、ある資料によると政昭はこれらの事件の後、「キリスト教の人となった」と という。 『函館ハリストス正教会史』編纂の時にお世話になった長谷部一弘氏にも連絡し、馬場 氏、長谷部氏、ニコライ神父と私は、今年6月、七飯の上藤城に向った。そして今回も、まだ供 えられて間もない生花と盛り塩があるのを私たちは目にしたのである。政昭は墓碑銘によると 明治33年11月25日に52歳で永眠している。 政昭の墓に正教会らしきものは何も記されていなかった。墓表面には「馬場家奥津城 お く つ き 」と記 されている。神道で埋葬されたのであろうか。この一帯は城山 しろやま 地蔵堂と呼ばれる一角で、明治 13年に墓地として認可されている。 私たちはその後、立待岬の馬場家の墓に寄った。前述 の尻沢辺の墓がこの場所だったかどうかは確定できないが、この辺り一帯は昔尻沢辺と呼ば れていた。当時馬場家の住まいがあった青柳町から一番近い墓地である。現在の墓石は、眼 科医だったフォティナ馬場みつ姉が平成11年に再成したもので、フォティナ姉の墓碑銘が最 後である。フォティナ姉の姉妹たちは、子供時代に近所(青柳町)に住んでいた石川啄木の 妻節子が馬場家に醤油や米を借りに来たのを覚えているという。 ちなみに北方民俗研究家モイセイ馬場脩兄もこの墓に眠っている、 馬場家の墓から10~15メートルほど登ると、ロシア海軍病院医師だったゼレンスキイから写 真技術を学んだと言われている写真家田本研造氏の墓がある。
馬場民準氏が、七飯上藤城の城山地蔵堂にある馬場家の墓に生花を 供えて下さっている方を探しています。差支えなければ、お心当たりがある方は教会にご連絡ください。
馬塲さんのことを 少し載せて行きます
馬塲さんの先祖は
八王子千人同心の仲間として160年前に七飯町に来られたそうです
追加
お祖父さんは弁護士
お祖父さん情報がこちらにありました
馬塲民則さん情報はこちら
こちらにも
伯父さんは、馬塲コレクション提供者
馬塲修さん情報はこちら
馬場みつさんの情報はこちら
こちらにも
130年前の写真
当時のことは 七飯町のHPにあります
七飯に眠ってる大叔父さんのこと
戸籍上は政昭ですが、政照とも言います。通称か、はたまた源氏名か(?)
平山金十郎や花輪五郎のご縁の方がおられたら是非お会いしたいものです。
政昭の娘がサヨです。
その娘がトシ、ヨシ。
サヨはこの娘を連れて勉三と結婚。
トシは一緒に帯広に行きましたが、ヨシは函館の靖和女学校で学ぶ。
こんなことが分かっています。
サヨさんは依田 勉三の妻
ここに載ってます お墓の事
馬場家のもう一つの墓
立待岬に馬場家の墓がある。墓碑銘の筆頭には「ディミ イトリイ馬場八百蔵 や お ぞ う 」、「エリザヴェタ馬場ナヲ」夫妻の名を 読み取ることができる。 八百蔵は、八王子千人同心の一人で、甲斐武田家の遺 臣であった(右上の写真の墓石に「武田菱」の紋が見え る)。彼らが集団で蝦夷開拓のために七飯 な な え 村に渡ってきた のが1856年(安政3)頃で、夫妻には政昭 ま さ あ き (長男)と民則 たみのり (次男)という二人の息子がいた。民則は、函館代言人組 合会長や函館区会議員を務めたアントニイ馬場民則。彼 も立待岬のこの墓の碑銘に名を連ねている。彼が永眠し た時(1908年)には、シメオン三井神父が正教新報に追悼 文を寄せている(『函館ハリストス正教会史』 94頁参照)。 しかしこの墓碑銘の中に馬場政昭の名は無く、つい先 日まで私たちは八百蔵に息子が二人いたことさえ知らな かった。 歴 史 の ひ と コ マ ▲ 立待岬の馬場家の墓 (右より長谷部一弘氏、墓石を挟 んで馬場民準氏、ニコライ神父) ▲ 上藤城の馬場家の墓 函館正教会に馬場民準 たみのり 氏(埼玉県在住)が訪ねて来られたのは昨年の秋のことであった。 民準 たみのり 氏にとって民則 たみのり は祖父にあたる。 民準氏は馬場家の祖先について詳しく調べており、私たちは多くの新事実を知ることとなっ た。 民準氏は、馬場政昭の墓が七飯の上藤城にあることを突き止めたのだが、その時(季節は 冬だった)、墓にみかんが一つと萎れた花が供えてあったというのだ。民準氏は「馬場政昭の 縁故の方がご存命であれば、是非お会いしたい」とのことで、情報を求めて函館正教会を訪 ねて来られたのであった。 民準氏は、昨年11月にも教会に立ち寄られた。帯広市開拓130周年記念行事で行われた 依田勉三(1853~1925)を記念する式典に参列し、本州に帰る帰途であった。依田勉三は、 筆舌に尽くしがたい苦労をして十勝地方の産業の基礎を築き、開墾に関する業績に対し緑 綬褒章を受けた人で、「十勝開拓の父」と呼ばれる。実は、馬場政昭の娘サヨが、依田勉三の 後妻に入っており、馬場家と依田家は親戚なのであった。 依田勉三の生涯を日記風に著した『風吹け、波立て』(松本晴雄著)の中には、サヨの祖父 八百蔵が永眠した時(明治31年2月9日)のことについて、「正午に神父の祈祷があり、一時に 出棺、尻沢辺へ埋葬し、三時に戻って酒飯が出され、五時に帰宅した 」、「朝五時 ※次頁へ続く - 8 - 歴 史 の ひ と コ マ ※前頁から続く に起き、六時にサヨと馬場へ出向くが、同家 は聖堂へ行って留守であった。そして聖堂へ 行き、神父の説教を聞いて九時に帰り、…」な どと記されている。 明治31年の函館正教会管轄司祭はペトル 山縣神父である。ちなみに八百蔵・ナオ夫妻 に洗礼を授けたのは、年代から推測すると、 聖ニコライであったと思われる。初めて聖ニコ ライが馬場家を訪ねてきた時、ナヲは大変驚 いて腰を抜かしたというエピソードが馬場家に 伝わっている。 馬場政昭について調べてみると、政昭は箱 館戦争のときに旧幕府軍側で戦っており、旧 幕府軍降伏後に、箱館府知事清水谷 し み ず だ に 公考 きんなる 暗殺(未遂)を企てた一味であったとのこと。信憑 性は定かではないが、ある資料によると政昭はこれらの事件の後、「キリスト教の人となった」と という。 『函館ハリストス正教会史』編纂の時にお世話になった長谷部一弘氏にも連絡し、馬場 氏、長谷部氏、ニコライ神父と私は、今年6月、七飯の上藤城に向った。そして今回も、まだ供 えられて間もない生花と盛り塩があるのを私たちは目にしたのである。政昭は墓碑銘によると 明治33年11月25日に52歳で永眠している。 政昭の墓に正教会らしきものは何も記されていなかった。墓表面には「馬場家奥津城 お く つ き 」と記 されている。神道で埋葬されたのであろうか。この一帯は城山 しろやま 地蔵堂と呼ばれる一角で、明治 13年に墓地として認可されている。 私たちはその後、立待岬の馬場家の墓に寄った。前述 の尻沢辺の墓がこの場所だったかどうかは確定できないが、この辺り一帯は昔尻沢辺と呼ば れていた。当時馬場家の住まいがあった青柳町から一番近い墓地である。現在の墓石は、眼 科医だったフォティナ馬場みつ姉が平成11年に再成したもので、フォティナ姉の墓碑銘が最 後である。フォティナ姉の姉妹たちは、子供時代に近所(青柳町)に住んでいた石川啄木の 妻節子が馬場家に醤油や米を借りに来たのを覚えているという。 ちなみに北方民俗研究家モイセイ馬場脩兄もこの墓に眠っている、 馬場家の墓から10~15メートルほど登ると、ロシア海軍病院医師だったゼレンスキイから写 真技術を学んだと言われている写真家田本研造氏の墓がある。
馬場民準氏が、七飯上藤城の城山地蔵堂にある馬場家の墓に生花を 供えて下さっている方を探しています。差支えなければ、お心当たりがある方は教会にご連絡ください。
codaruma at 06:42|Permalink│Comments(5)│
バガーマンさんの事 函館繋がり 60年
この出来事は
1909年9月
おぢさんとはオリガさん繋がり
オリガさんとは函館生まれのロシア人
詳しい経緯はこちら
この1枚の写真から、馬塲さんと人探しがはじまりました
馬塲さんの子供時代とか
バガーマンさんとは
コメントで
9月5日?7日間
函館繋がり同士の色々な出会いの小さな集いがありました
間違いでなければ、60年前に青柳町で子供に勉強を教えてた
先生と生徒?
学校ではないようです
今回は25年振りだとか
詳しい説明はバガーマンさんに
1909年9月
おぢさんとはオリガさん繋がり
オリガさんとは函館生まれのロシア人
詳しい経緯はこちら
この1枚の写真から、馬塲さんと人探しがはじまりました
馬塲さんの子供時代とか
バガーマンさんとは
コメントで
1. Posted by バガ―マン 2009年09月08日 09:44
おぢさん
ほんとだね。
この写真1枚の中に、60年ぶり(?)だったり、25年ぶりとかオリガさんを介しての最近の出会いとかたくさん詰まっています。
確かに、小学校の恩師との再会と言ってもなんもおかしくない写真です。
はごだでぃを歩いた(ほんとに健脚揃いの皆さんです)2日は予想もせぬ夏日で大汗かきながら、私達のよきはごだでぃを楽しみました。
ほんとだね。
この写真1枚の中に、60年ぶり(?)だったり、25年ぶりとかオリガさんを介しての最近の出会いとかたくさん詰まっています。
確かに、小学校の恩師との再会と言ってもなんもおかしくない写真です。
はごだでぃを歩いた(ほんとに健脚揃いの皆さんです)2日は予想もせぬ夏日で大汗かきながら、私達のよきはごだでぃを楽しみました。
2. Posted by おぢさん 2009年09月09日 11:52
バガーマンさん
ブログを通して
色々な思い出や繋がりができる
楽しいもんですね。
函館は急に寒くなってきてます。
ブログを通して
色々な思い出や繋がりができる
楽しいもんですね。
函館は急に寒くなってきてます。
3. Posted by バガ―マン 2009年09月09日 12:27
そうですね、
私(とおぢさんを)除く、3人の女性の共通項はLibrarian。
職場はある時期同じだったり、違っていてもそれぞれ昔からのお知り合い。
うち、お一人はおぢさんと並行してオリガさんを探せ!の主役。彼女のネットの記事が無かったらおぢさんもきっと凄く苦労したはず。オリガさんのはごだでぃへ行きたいという願いを実現したことで、おぢさんや私とのはごだでぃ繋がり。
オリガさんの講演会場に見えたもう一人の方は、実は私も旧知の方で、叔父の研究のお仲間。広い交友関係をおもちです。
そして、最後の方は講演会場に見えた方とはごだでぃでうん十年前に一緒に仕事をされていた。そしてオリガさんを探せ!の主役とも仕事仲間で長いお付き合い。
これで綺麗な三角形ができますが、更に更に、最後の方はなんと私が住んでいた家に、私達家族が移り住む前に、住んでいた方でもあります。驚きの過去。
おぢさんと私、ただのネットでの友人。共通項と言えば、はごだでぃが好き!でしょうかねえ。まあ、5人に共通としておきましょう。
私(とおぢさんを)除く、3人の女性の共通項はLibrarian。
職場はある時期同じだったり、違っていてもそれぞれ昔からのお知り合い。
うち、お一人はおぢさんと並行してオリガさんを探せ!の主役。彼女のネットの記事が無かったらおぢさんもきっと凄く苦労したはず。オリガさんのはごだでぃへ行きたいという願いを実現したことで、おぢさんや私とのはごだでぃ繋がり。
オリガさんの講演会場に見えたもう一人の方は、実は私も旧知の方で、叔父の研究のお仲間。広い交友関係をおもちです。
そして、最後の方は講演会場に見えた方とはごだでぃでうん十年前に一緒に仕事をされていた。そしてオリガさんを探せ!の主役とも仕事仲間で長いお付き合い。
これで綺麗な三角形ができますが、更に更に、最後の方はなんと私が住んでいた家に、私達家族が移り住む前に、住んでいた方でもあります。驚きの過去。
おぢさんと私、ただのネットでの友人。共通項と言えば、はごだでぃが好き!でしょうかねえ。まあ、5人に共通としておきましょう。
9月5日?7日間
函館繋がり同士の色々な出会いの小さな集いがありました
間違いでなければ、60年前に青柳町で子供に勉強を教えてた
先生と生徒?
学校ではないようです
今回は25年振りだとか
詳しい説明はバガーマンさんに
at 06:14|Permalink│Comments(3)│
2016年01月18日
バガーマンさんの事2
馬塲さんの先祖のことは、
おいおい、コメントの中から選び、足します
札幌で生まれた馬塲さんは
裁判官のお父さんが函館に転勤になり
青柳町の官舎に住む事になりました
野球を初めて見たのも、この頃
今の潮見中学の所、 自楽堂さん提供
馬塲さんが住んでたところ
馬塲さんが通ってた、青柳小学校
このへんで こんな遊びを
第一回 竹滑り大会もありました、景品は鉛筆だったとか
馬塲さんは橇遊びが好きでした
コメントから
katsumiさん
こんにちは!橇かぁ~
懐かしいね!家が貧乏だったので、既製品ではなく自分で作った橇(兄貴に手伝ってもらって)敷居に使うレールに穴をあけ釘で上手く止める。(これが難しい)
滑るのはもっぱらNHKの横の坂(曙坂かな?)ロウプウェーの横の最高の急坂
横乗り(右のお尻を付け左足で舵を取り右手は橇の前左手は橇の後ろを対角線に位置させる)これが身体が自然に低くなるのでスピードが出る。
あぁ~懐かしい・・今じゃこぇ~よ!
バガーマンさん
皆さん
叩けば出るねえ、埃じゃなくて思い出が。
先ず、私の腹ばいとKatsumiさんの横乗りは同じ乗り方だと思いますな。
今じゃ怖いわね、そりゃ。当時だからNHKの坂を滑ることができたんだ。
きんこさんもやるんでないかい?
男めっけ・・・・久しぶりに聞く言葉ですなあ。
古池さんは夏の猛特訓で頭打ったの?
そりゃ突貫小僧だからね。
古池さんのお宅の前の坂も結構急ですよ。
私はあの坂道に出るわき道から橇で滑ってきて危うく自動3輪に轢かれそうになったんです。今から思えば冷や汗!
上のNHKの坂の前の竹スケート大会は、前にも書いたけど私も参加。
4位で鉛筆貰いましたわ。嬉しかったね。
この写真のどっかに写ってるんじゃないかな?
>足を下にして頭を下げ、寝てるよう ルージュのように滑ってた人は 居なかった?
そりゃいたよ。
田中邦衛の写真のように、彼は上半身起こしてるけどひも掴んだまま後ろにそっくり返ればいいんだから。
初心者の子供はだいたいこれだよ。
重心が高いからスピードが出ないように気をつけてね。
そのうちに横乗りを真似るってわけですよ。
でもねえ、もう一回言うけど雪のかまくら、或いは城・基地遊びの方がずっとダイナミックで楽しかったんだけどな。
一冬遊べるんだよ。
ここじゃかまくらとその延長系の遊びした人はいないのかな?
おぢさんはどう?
おぢさん達のかまくら遊びは緊張感に欠けるなあ。
こちとら見えざる敵の襲来に備えてそれこそ朝から晩まで城・基地であるかまくらに立て篭もり、昼間のお日様の熱には雪を運んできてぺたぺたと融けたところに張付け、夜が来るとバケツに汲んだ水をかまくらの表面にばさ~っとぶっ掛けて朝には氷となって表面が強化されるのを待つ。
雪だけじゃ物足りないから空き家の雨戸を天井に補強して(怒られたり)かまくらに他人が簡単には近づけないように道路に雪のバリケードをうずたかく積んで(怒られたり)いたものさ。
かまくら内部には凍らせた雪の玉をりんごの木箱に積んで、何時敵が来ても即時対応するべく準備万端怠り無しだったんだ。
しかし、何故か敵も宇宙人も来ないんだよねえ、待てど暮らせど。(来るわけないよね)来るのは帰りの遅い兄弟を呼びにくる兄弟か偶に親くらいなんだわ。
そうなるとどうすると思う?
敵を探しに遠征するのさ。
すぐそこに”敵”はいるんだよ。
崖の下には日銀の官舎があって、日銀の子らもかまくら作ってるんだ。勿論皆青柳の子だよ。顔も名前も皆知ってる。
彼らが突然我々の敵になるのさ。不思議なもんだねえ。
大体が内地から転勤でやってきた日銀の子らは雪は珍しいだろうし、かまくら作りにも慣れてはいないんだ。雪を積み重ねて中をくりぬくというテクニックも無いんだ。
一生懸命雪を固めてシート状にして積み上げて天井をなんとか作ろうとしちゃ失敗するわけ。
こちとら裁判所、検察庁連合軍はそれを崖の上からほんとうの高みの見物。
彼らの努力を鼻でせせら笑いながら、もう少しで完成というところで崖の上から凍った弾丸を彼らのかまくらに一斉射撃!
折角のかまくらはあえ無くぺちゃんこ。
崖の下から泣いて抗議する日銀の子。
連合軍は勝ち誇って、もっとましなの作れや!と捨て台詞。
今から謝っても晩いが、酷いことしてごめんね。
洞爺丸台風も経験してます
馬塲さんのコメント
あの日の今頃(午後8時ころ)は凄い風ですぐ裏手にあった北洋博の建物から垂木が風に飛ばされて、我が家の雨戸に何本もぐさり、ぐさり、ガラスがばりんばりんと割れて、これじゃ堪らないと暫くして汐見神社の社務所に一家で逃げ込んだんだよ。
あの日は昼間はいい天気の日曜、午後から停電でまさかこんな凄まじい台風が来るとは夢にも思わなかったね。
青柳の生徒にも父や兄を連絡船で亡くした人が多かった。
翌朝は素晴らしい晴れで暑かったわ。
改めて亡くなった方々のご冥福を祈る。
おいおい、コメントの中から選び、足します
札幌で生まれた馬塲さんは
裁判官のお父さんが函館に転勤になり
青柳町の官舎に住む事になりました
野球を初めて見たのも、この頃
今の潮見中学の所、 自楽堂さん提供
馬塲さんが住んでたところ
馬塲さんが通ってた、青柳小学校
このへんで こんな遊びを
第一回 竹滑り大会もありました、景品は鉛筆だったとか
馬塲さんは橇遊びが好きでした
コメントから
katsumiさん
こんにちは!橇かぁ~
懐かしいね!家が貧乏だったので、既製品ではなく自分で作った橇(兄貴に手伝ってもらって)敷居に使うレールに穴をあけ釘で上手く止める。(これが難しい)
滑るのはもっぱらNHKの横の坂(曙坂かな?)ロウプウェーの横の最高の急坂
横乗り(右のお尻を付け左足で舵を取り右手は橇の前左手は橇の後ろを対角線に位置させる)これが身体が自然に低くなるのでスピードが出る。
あぁ~懐かしい・・今じゃこぇ~よ!
バガーマンさん
皆さん
叩けば出るねえ、埃じゃなくて思い出が。
先ず、私の腹ばいとKatsumiさんの横乗りは同じ乗り方だと思いますな。
今じゃ怖いわね、そりゃ。当時だからNHKの坂を滑ることができたんだ。
きんこさんもやるんでないかい?
男めっけ・・・・久しぶりに聞く言葉ですなあ。
古池さんは夏の猛特訓で頭打ったの?
そりゃ突貫小僧だからね。
古池さんのお宅の前の坂も結構急ですよ。
私はあの坂道に出るわき道から橇で滑ってきて危うく自動3輪に轢かれそうになったんです。今から思えば冷や汗!
上のNHKの坂の前の竹スケート大会は、前にも書いたけど私も参加。
4位で鉛筆貰いましたわ。嬉しかったね。
この写真のどっかに写ってるんじゃないかな?
>足を下にして頭を下げ、寝てるよう ルージュのように滑ってた人は 居なかった?
そりゃいたよ。
田中邦衛の写真のように、彼は上半身起こしてるけどひも掴んだまま後ろにそっくり返ればいいんだから。
初心者の子供はだいたいこれだよ。
重心が高いからスピードが出ないように気をつけてね。
そのうちに横乗りを真似るってわけですよ。
でもねえ、もう一回言うけど雪のかまくら、或いは城・基地遊びの方がずっとダイナミックで楽しかったんだけどな。
一冬遊べるんだよ。
ここじゃかまくらとその延長系の遊びした人はいないのかな?
おぢさんはどう?
おぢさん達のかまくら遊びは緊張感に欠けるなあ。
こちとら見えざる敵の襲来に備えてそれこそ朝から晩まで城・基地であるかまくらに立て篭もり、昼間のお日様の熱には雪を運んできてぺたぺたと融けたところに張付け、夜が来るとバケツに汲んだ水をかまくらの表面にばさ~っとぶっ掛けて朝には氷となって表面が強化されるのを待つ。
雪だけじゃ物足りないから空き家の雨戸を天井に補強して(怒られたり)かまくらに他人が簡単には近づけないように道路に雪のバリケードをうずたかく積んで(怒られたり)いたものさ。
かまくら内部には凍らせた雪の玉をりんごの木箱に積んで、何時敵が来ても即時対応するべく準備万端怠り無しだったんだ。
しかし、何故か敵も宇宙人も来ないんだよねえ、待てど暮らせど。(来るわけないよね)来るのは帰りの遅い兄弟を呼びにくる兄弟か偶に親くらいなんだわ。
そうなるとどうすると思う?
敵を探しに遠征するのさ。
すぐそこに”敵”はいるんだよ。
崖の下には日銀の官舎があって、日銀の子らもかまくら作ってるんだ。勿論皆青柳の子だよ。顔も名前も皆知ってる。
彼らが突然我々の敵になるのさ。不思議なもんだねえ。
大体が内地から転勤でやってきた日銀の子らは雪は珍しいだろうし、かまくら作りにも慣れてはいないんだ。雪を積み重ねて中をくりぬくというテクニックも無いんだ。
一生懸命雪を固めてシート状にして積み上げて天井をなんとか作ろうとしちゃ失敗するわけ。
こちとら裁判所、検察庁連合軍はそれを崖の上からほんとうの高みの見物。
彼らの努力を鼻でせせら笑いながら、もう少しで完成というところで崖の上から凍った弾丸を彼らのかまくらに一斉射撃!
折角のかまくらはあえ無くぺちゃんこ。
崖の下から泣いて抗議する日銀の子。
連合軍は勝ち誇って、もっとましなの作れや!と捨て台詞。
今から謝っても晩いが、酷いことしてごめんね。
洞爺丸台風も経験してます
馬塲さんのコメント
あの日の今頃(午後8時ころ)は凄い風ですぐ裏手にあった北洋博の建物から垂木が風に飛ばされて、我が家の雨戸に何本もぐさり、ぐさり、ガラスがばりんばりんと割れて、これじゃ堪らないと暫くして汐見神社の社務所に一家で逃げ込んだんだよ。
あの日は昼間はいい天気の日曜、午後から停電でまさかこんな凄まじい台風が来るとは夢にも思わなかったね。
青柳の生徒にも父や兄を連絡船で亡くした人が多かった。
翌朝は素晴らしい晴れで暑かったわ。
改めて亡くなった方々のご冥福を祈る。