2015年05月11日
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この記事へのコメント
1. Posted by 栄町住人 2015年05月22日 19:13
函館と樺太へは飛行機ですが、昭和初期、函館からは北上した鰊を追い、船で樺太へ渡っていました。当時でも、アイヌ語、ロシア語は必要だったようです。
2. Posted by おぢさん 2015年05月22日 21:14
栄町住民さん
そうだったんですね
鮭、鱒だけでなかった
私の家族、親戚が樺太に住んでたので
生きてたらこれらの写真を見せてやりたかった
そうだったんですね
鮭、鱒だけでなかった
私の家族、親戚が樺太に住んでたので
生きてたらこれらの写真を見せてやりたかった
3. Posted by バガーマン 2015年05月22日 21:27
おぢさん、栄町住民さん
市史を読むとよく書かれていますが、戦前まではごだでぃの漁業者は樺太、沿海州で多大の漁業権益を保有していました。
当時のことですからはごだでぃからはその権益の確保や執行のために多くの交流があり、船の便が多くあったようです。
敗戦で全ての漁業権益が失われ、漁業者やそれに従事する人たちも一気に職を失ったということですね。
おぢさん一家のようなかたはそれこそごまんとおいでだったことでしょう。
私も小さいころ近くに何人かの元露西亜語通訳で活躍し、戦後は職を失って呆然として過ごしている方がおられたのを知っています。きっとはごだでぃ全体では多くの方が職を失ったのではないかと思います。
昔は良い生活をしていただけに自失しておいでだったと思います。
はごだでぃの興亡の短い一こまかも知れませんね。
市史を読むとよく書かれていますが、戦前まではごだでぃの漁業者は樺太、沿海州で多大の漁業権益を保有していました。
当時のことですからはごだでぃからはその権益の確保や執行のために多くの交流があり、船の便が多くあったようです。
敗戦で全ての漁業権益が失われ、漁業者やそれに従事する人たちも一気に職を失ったということですね。
おぢさん一家のようなかたはそれこそごまんとおいでだったことでしょう。
私も小さいころ近くに何人かの元露西亜語通訳で活躍し、戦後は職を失って呆然として過ごしている方がおられたのを知っています。きっとはごだでぃ全体では多くの方が職を失ったのではないかと思います。
昔は良い生活をしていただけに自失しておいでだったと思います。
はごだでぃの興亡の短い一こまかも知れませんね。
4. Posted by おぢさん 2015年05月23日 02:59
樺太、満州 引揚者 たくさん居ましたね
親達も あちらでは、家建て、宝石、時計、その他雑貨などを扱ってたとか
親父はあんまし語らなかったけど
母が逃げて来る時に、金目のものはドラム缶に入れて、土の中に埋めてきたと言ってました
戦後、サハリンに行けるようになった時に
母に行きたいかいと聞いたけど
いやだと
親達も あちらでは、家建て、宝石、時計、その他雑貨などを扱ってたとか
親父はあんまし語らなかったけど
母が逃げて来る時に、金目のものはドラム缶に入れて、土の中に埋めてきたと言ってました
戦後、サハリンに行けるようになった時に
母に行きたいかいと聞いたけど
いやだと